2014年2月11日、一生の思い出に残る出来事がありました。木下です。
日本のスノーボードチームが、1998年長野オリンピックで正式種目となって以来、5大会16年目にして初めて日の丸を揚げメダルを取りました。そのスノーボードチームを、監督として6年かけて作ったのが、先輩で親友の「萩原文和」さんでした。ハーフパイプ決勝の中継をテレビで見て、2位平野歩夢、3位平岡卓が決まった瞬間、思わず電話していました。
『やったねーーー!』
『やったよー!』
歩夢は15才、日本人最年少のメダリストに、卓は18才、ほんとに新しいハーフパイプチームは若返りました。そしてパラレルGSでは竹内智香はソルトレイクから出場し続け4大会目にして初のメダル獲得しました。
文和さんが帰国し、ひとしきりメディアコントロールを終えた3月中旬、今まで文和さんにお世話になった人を集め、一(いち)スノーボーダーとして感謝を伝えるUn-officialな会「文和さん、ありがとう会」を開きました。数日前に声をかけたにも関わらず、6才から40才のスノーボーダーが50人以上集まり、みんな感謝の気持を伝えることができました。ホタカとリッカ(小学生の女の子)は二人で金メダルクッキーを作ってきて「未来のスノーボーダーからの感謝状」とともにメダルの授与というハプニングまでありました。(子供ずるい!文和さん満面の笑み…笑)
文和さんの「ソチいろいろ報告」では、選手村の部屋がハリボテだったこと。フラワーセレモニーの女性がロシア美人だったこと。部屋のシャワールームをひとつキッチン専用にして、監督自ら毎朝全選手分の「おにぎり」をにぎっていたこと。文和さんがもっていたwifiルーターを追いかけて若い選手たちがいつも10m圏内にいたこと(ゲームがしたかったらしい)。など、オフィシャルでは語れない「おもしろ話」がたくさんあり、参加したみんなの笑い声が絶えない、とっても和んだ会になりました。
文和さんとの出会いは23年前、30才のとき、スピードスキーでインターハイから国体の代表選手を経てスキー場の支配人だった文和さんと、スノーボードメーカーとして本拠地を探していた私。その出会いがとても強烈で「スクールをやらせてください」「いいよ!」「スキー場の隅にハーフパイプを作ってください」「いいよ!でも隅じゃなくメインゲレンデのホテル正面に作る!」「サポートライダー達に練習環境を与えてください」「いいよ!」とあらゆるリクエストに応じてくれて(当時スノーボードは悪者扱いでスキー場からは嫌われていました…笑)、その後10年以上かけレースや検定会、メーカー試乗会や展示会、NIPPON OPEN第1回から第5回(国際大会)まで、数えきれないイベントを一緒に作り上げてきた仲です。
文和さんがスキー場のオーナー社長になった現在も、私はブランディングや商品作りのマーケティングを手伝い、シーズン中はゲレンデに屋台を出し「焼きそばとピザ」を一緒に焼きながら、お客さまとの会話を楽しんでいます(焼きそばの別名は「社長の焼きそば」と呼んでいます…笑)。大人になってからの出会いで本当の親友になるって希有なことで、この出会いに感謝しています。
スノーボードやスキーに限らず、常々スポーツは人格形成にかかせない「素晴らしいモノ」だと考えています。いくつになっても自分自身の挑戦ができ、自己ベストをクリアすれば「喜び」クリアできなければ「悔しい」。同じルールの中、人と争い、勝てば「誇らしく」負ければ「悔しく」。そして自分の長所を理解し、自分に足らないこと考え練習に没頭する。そんなシンプルなスポーツの神髄が好きです。
同じスポーツをする中で、自分ができないレベルに達している人を讃え、子供たちは自分の姿をヒーローやヒロインに重ねあわせ「夢」を見る。そんなスポーツの素晴らしさをリスペクトし、夢が見れる世の中にしたい。
文和さん「アスリートの夢・スポーツマンの夢」をありがとう!
2年後「リオデジャネイロ・オリンピック」ゴルフ種目復帰。今から楽しみです。
木下勝浩
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